薄明光線

エッセイテイストな読み物。週一くらいの頻度で更新します。僕の話、時々僕ではない誰かの話。ささやかな楽しみにしてもらえたら幸いです。

タバコの残り香

炙られた葉とメンソールの香りが、鼻を通って肺まで渡り、ジンの酔いで程よく温まった体に馴染んでいく。


僕は普段タバコを吸わない。酒を心地良く飲めた日にだけ嗜む程度だ。仲間内と飲んでいたテラスの席は禁煙席だったようで、店員に灰皿をお願いすると奥の喫煙席へ僕がだけが通された。


先程の彼女とのやりとりが頭をぐるぐるとまわっていたが、酒のせいか上手く噛み砕く事ができずにいた。


"本気ですか?それだと私は思わせぶりな事ばかりしていますよね。こうやって会うのはやめた方がいいですかね?"


宙を舞う煙が空(くう)に消えていくのを眺めながら思考を泳がせていると、後ろから彼女がやってきた。
職場が同じ彼女には、付き合って1年になった彼氏がいる。僕は彼女に好意があったが、ふたりの関係を断ち割って入りたいなどという気持ちは毛頭なかった。僕はたまにふざけて好意をチラつかせていたのだが、彼女にもそれは単なる悪ふざけと映っていたようだ。その悪ふざけを彼女も楽しんでいた。そうしたうちにふたりっきりではないものの、後輩を交えて3人で飲むような仲になった。今回の企画は彼女から立ち上がったもので、今夜も単にそんな日で終わる予定だった。


「一本もらえますか?」


僕は無言で箱から一本タバコを取り出し渡した。彼女は火をつけてくれといった感じに咥えたタバコをこちらへと向けてきたので、僕がライターで火をつけるだが、彼女はタバコ慣れしていないためか、すぐに火が消えてしまう。


「私、火をつけるの苦手なんですよね。つけてもらえませんか?」


彼女は一度咥えたタバコを僕に渡し返した。あまり男だとか女だとかにこだわらない彼女の事だから構わないかと、彼女の唇で濡れた場所に当たらぬようほんの少し傾けてからタバコを咥え火をつけ、それを彼女の口元へと差し出した。
「ほんの少しでいいんです。」と、なんとも吸い方が弱々しく、微笑ましかった。


気持ちは本気なのだ。だが、彼女の幸せを壊したいわけでもなく、ただふざけ合っている関係に幸せを感じる事ができたし、自身もいい大人なのだからと、体さえ重ねなければ彼女とのやりとりを楽しんでいたって何も悪い事ではないと割り切っていた。
照れ臭さから僕は視点を少しばかりズラしていたのだが、気のせいかもしれないが彼女は割とずっとこちらを見ていたように感じた。先程の僕の返答が腑に落ちなかったのかもしれない。


"気持ちは本気なんだけど、彼氏さんとの仲をどうこうしたいとかじゃないからさ。望んでくれるのならこのままでいよう。"


この気持ちも嘘ではない。そしてこの気持ちには踏み込まれないと根拠なくタカをくくっていた。
この彼女との関係が終わってしまうかもしれないと思った時に初めて気がついた。僕はこの気持ちが育たないように蓋をして生きていたのだ。
わざとふざけて見せて、本気でないように振る舞い、核心に触れられないように生きていた。


「もう満足しました!」と、彼女はニヤニヤしながら、まだまだ残りの長いタバコをまたこちらへ返してきた。悪戯な彼女の表情から意図を察し、僕はそのタバコを何も気に留めていないフリをしながら自身の口へと運んだ。


他から言わせればこんな彼女の振る舞いも小悪魔的だとか悪く言われるのかもしれないが、彼女が心を許してわがままを言ってくれて、それに応える事が幸せなのだ。僕にだけわがままを言ってくれればいい。


きっと僕は彼女にとって、こんな数分のタバコの時間にだけ付き合って欲しいような間柄でしかないのだ。そして、このような状況に満足している事にさよならをしなければならない時が来てしまったのだ。


「戻りましょう。」と彼女が言ったので、僕はまだ少し残ったタバコを灰皿に押し付けて立ち上がった。女性らしい甘めの香水の香りと、タバコの煙が混ざり合い宙を舞って消えていった。もちろん彼女の言葉は、単に"席へ戻りましょう"という意味なのだろうが、こんな話をした後のせいなのか、どうしても意味を深く捉えてしまう。真面目に向き合わずに、ただ気軽にふざけ合う関係に戻りましょうという意味なのか、お互いの気持ちを何も知らなかった頃のふたりに戻りましょうという意味なのか、僕にはわからなかった。


ジンの酔いがかなり酷くまわっていた。