薄明光線

エッセイテイストな読み物。週一くらいの頻度で更新します。僕の話、時々僕ではない誰かの話。ささやかな楽しみにしてもらえたら幸いです。

さよなら、ぼくのなつやすみ。

7月の初め、今年初めての蝉の声を聞いた朝、高知に住む祖父が亡くなったと、母から電話があった。

 


81歳という、現代では長寿とも短命とも取れない歳だったが、まだ足を悪くしていなかったので、ヒトの一生として程よい長さだったのでは無いかと思う。

 


年初から末期癌で余命宣告されており、その宣告通りの時期に息を引き取ったため、僕の中では覚悟が決まっていたのか、母の話を淡々と受け答えていた。

 


その日は仕事を定時までキチンと済ませ、しっかりシャワーを浴びてから家族と合流し、父の運転で高知へ向かった。

 


13年前に祖母も先立っている事もあり、今後高知への用事は少なくなる。最後とまでは言わないがあと数回だろう。

そんな事を考え、何度も繰り返したこの数時間の旅路に名残惜しさも感じながら、エンジン音を子守唄代わりにし、夜中の3時頃に斎場に到着した。

 


対面した祖父の遺体は痩せ細っていて、祖父を見ているというよりは、白骨しかけた別人の遺体を見ているようで、祖父の死の実感を感じる事ができなかった。

自ら命を絶った叔父の時には泣きじゃくった母も、覚悟が決まっていたのか、「お疲れ様やったね。」と淡々と語りかけているだけだった。その冷静さが、余計に僕から実感を奪っていった。

 


母が長女である事から喪主となった為、葬儀は慌ただしく過ぎていった。

前回の段取りを忘れたのだが、斎場の方から、火葬場では棺で祖父の顔を見る事ができないと説明があり、告別式となる。

 


係の方が棺の側まで花を運び、遺族へ花を納めるよう促した。僕が祖父の死を実感し涙する事ができたのはこの時であった。親戚一同、久しぶりの再会だったのもあり、ここまでは不謹慎なくらいにワイワイとやっていたが、母も含め、皆ここで初めて流した。

 


祖母の死後、祖父は近所に住んでいた祖母の友人とお付き合いをしていた。この話だけを側から聞けば、なんなんだと思うのが自然だろう。初め聞いた時は僕もそう思っていたのだが、そのおばさんが始終、一番悲しそうにしていた。祖母の死後、孤独だった祖父を毎日見てきたのはこのおばさんなのだ。祖父が寂しい晩年を過ごさずに居られたのは彼女のおかげなのだ。大阪で仕事を理由にロクに会い行きもせずにいた僕たちに悲しむ資格などあるのだろうかと思うほどに、おばさんは一番多くの涙を流していた。

 


花が大好きだった祖父に、花をいっぱい詰めてあげてくれと母が言った。親戚一同に加えておばさんも一緒になって、全ての花を納めていく。最後は雑に詰めていく皆の手が気に入らず、独占して綺麗に手入れし整えてやった。最期は美しく在るべきだからだと母に言ったら、苦笑いしていた。

 


祖父の家に戻り、今後の流れを一通り話し合った後は、母達の手料理を親戚一同で食卓を囲んだ。子供の時以来の光景だった。

お盆には毎年、祖父、祖母、従兄弟の家族達と町の花火大会に行き屋台を堪能し、四万十川でバーベキューと川釣りをし、叔父の車で土佐湾に海水浴に行き、夜は祖父の照らす懐中電灯の灯りを頼りに、クワガタムシを誘い出す罠を仕掛けに蚊取り線香の入った缶をカンカン鳴らしながら山へ入った。

皆、成人を迎えた今、このメンツでこんな事をする事はもう無かっただろうが、僕の中で高知の夏とは、祖父無しでは成立しないものであり、祖父がいなくなる実感とは、この夏がもう起きる事が無いという、喪失感だった。

 


驚くほどに金も無く、威厳も無い男であったが、娘達には嫌われる事なくいつまでも慕われていた。こんな歳になっても祖父に彼女がいたのは、祖父が本当に優しい男であったからだろう。そんな祖父に敬意を込めて、娘達は何故か皆、子供達に彼の事をおじいちゃんでは無くじっさまと呼ばせていた。

 


さよなら、じっさま。

さよなら、ぼくのなつやすみ