薄明光線

エッセイテイストな読み物。週一くらいの頻度で更新します。僕の話、時々僕ではない誰かの話。ささやかな楽しみにしてもらえたら幸いです。

スナックに行くおっさんの気持ちなんて一生わからないと思っていた。

誂えられた食事のように、"さあ召し上がれ"と裸になった女性を見ても、何かを思う事ができなくなった。

むしろ、気分でない時に出された焼き魚の感覚に近い。この後起きる一連の流れを予測立てすると、骨を取らなければ食べる事ができない。めんどくさいという気持ちだけが残ってしまうのだ。

 


男として生まれると世間から、"貴方も男であるのだから、情欲には逆らえぬものでしょう?"といった、そういう気持ちがあって当然という前提のハラスメントを受ける。むしろそういうスタンスで男と接する女性の方が、男に理解があると扱われるような世の中である。おそらく私も情欲には逆らえない。そもそも、情欲が芽生えればの話なのだが。

 


コンビニで手軽に手にする事ができるようになった雑多なアダルトコンテンツから多くの日本人男性が間違った性知識を蓄えたのと同じように、女性達も、女性向けティーン誌におもしろおかしく書かれた、自分達とは少し違う、男性という歪な生き物を屈折して捉えているのだろう。

 


昨今、女性の生きにくさが描かれた小説や、SNSで投稿された記事、漫画が多く取り上げられる中で、私はあえて、男性の生きづらさを書く物書きで在りたいと思う。

女性をガツガツと求めてない男性を異質として扱う社会の異常性、明らかに男性が不利に立たされているセクシュアルハラスメントの問題、とりだたされないだけで多くが存在している。存在しないのではない。多くの男性が更なる弾圧を恐れて声を上げていないだけである。

 


これは男性、女性が理解を深めれば解決するというものではなく、括りの問題と考えている。

男性、女性と括るからおかしくなる。

個人として評価を下していればこの様な事にはならない。

無理難題かもしれない。自意識過剰なのかもしれないが、あえてひとりの意見として言いたい。

 


ひとりの男性として私を見るな。

私の本質を見て欲しい。

カテゴライズされた中での評価よりも、個人の本質を見極めてこそ人の価値が見出せると私は信じている。