薄明光線

エッセイテイストな読み物。週一くらいの頻度で更新します。僕の話、時々僕ではない誰かの話。ささやかな楽しみにしてもらえたら幸いです。

痛みに鈍感になる苦痛

例えばの話、同じ社内で働く笑顔が可愛いアイドル的存在の女子社員が、ある日突然社内に寿退社宣言をぶち込み、社内に激震が走ったとする。そんな光景で例えるならば僕の立場は、妻子がある身でありながら毎朝その子が熱いお茶を運んでくるのを楽しみにしていた社員Cと言ったところだ。第三者としても三流だ。Aにすらなれない。Cだろう。

 


たとえ異性として気にかけてしまったとしても、関係が発展する事などには期待せず、時折見せる笑顔を眺めるだけで満足していた。相手へ踏み込んでいく勇気の無さを、妻子があることを理由に必要無いと言い訳できるのは、既婚者や彼女持ちの特権だ。今しがた自分の中にある、好意の具合の近さとして、妻子持ちの人間で例えてみたものの、僕には妻子が無く、言い訳する理由がない。この何も生み出される事はない状況に満足していたハズなのに、自身に言い訳できる正当性が何もない為、勇気のなさからの言い訳だったのではないかという後ろめたさが、どうしても付いて回ってしまうのだ。

 


ささやかな楽しみが減る程度の事のハズだった。例えるならば突然日本国内でのピーナッツの市場価格が高騰して、晩酌のおつまみのラインナップから無くなったくらいの事だ。

 


若かりし頃の自身にとって、想いを寄せた人と一緒になれない現実は、その後の人生の全てが無意味に思える程の絶望だった。かつてはフラれた悲しみで顔が崩れる程に涙と鼻水を垂らしながら、吉野家の牛丼を口いっぱいにかきこんだような日もあったというのに、今ではただ、"タイミングが合わなかった"だとか、"縁がなかっただけ"と思えてしまうのだから薄情なものである。

 


そんな中、太宰治の作品の一節をbotとして発信しているツイッターアカウントがこんな事を発信していた。

 


"要するに私の恋の成立不成立は、チャンスに依らず、徹頭徹尾、私自身の意志に依るのである。私には、一つのチャンスさえ無かったのに、十年間の恋をし続け得た経験もあるし、また、所謂絶好のチャンスが一夜のうちに三つも四つも重っても、何の恋愛も起らなかった事もある。"

 


誰の事だか。

今夜は不味い酒が飲めそうだ。